夢枕獏著「獅子の門 玄武編」序章より 「どのような世界にも、天才というものがいる。空手の世界にもだ。すぐに技を呑み込み、足も高くあがり、技のコンビネーションも素晴らしい……」 「はい」 「しかし、君も知っていようが、往々にして、天才とは、大成しないものだ──」 「───」 彦六は、無言でうなずいた。 「天才には、感動が無い」 赤石は、きっぱりと言った。 「どんな技もすぐに呑み込んでしまうからだ。それが天才の足元に口を開けている落とし穴だ──」 言ってから、赤石は彦六を見た。 「ええ」 「わたしは、何人もの門弟を見てきて、そう思う。努力しない天才よりは、努力する凡人が勝るのだ。これほどという天分に恵まれた者が、五年後、六年後には、同時期に入門したただの男に抜かれてしまっているのを、何度も見てきた。何故なのだろうか。どうしてなのか──」 「───」 「ただの男には、感動があるからだよ。回し蹴りひとつとってもそうだ。天才は、すぐに覚えてしまう。何週間か、何日かで、驚くほど高く足があがるようになり、一日に百回か二百回も練習すれば、その技を自分のものにしてしまう。しかし、ただの男は駄目だ。二ヶ月で天才が通り過ぎてしまう場所を通り過ぎるのに、一年も、二年もかかる。時にはそれ以上もだ。高く足のあがった、 回し蹴りを放つだけで、何千回何万回以上もただ同じことを繰り返す。天才と、同じ蹴りを放つという、ただそれだけのことのためにだよ──」 「はい」 「ある時、ふいに、足があがる。それまでと同じ場所に当たっているはずなのに、これまでとはまるで違う感触のものが、その蹴りを放った瞬間に、全身を貫くのだよ。これだ、と思う。ああ、これだと思う──」 赤石の声が、やや高くなっている。 「その時の感動の深さが、おそらくは、その空手家の一生を決めてしまうような気がするのだよ」 「──」 「その蹴りの感触を忘れないために、何度も何度も同じことを繰り返せるかどうかなんだ。ただの男は、天才が一ヶ月で覚えてしまう蹴りを、一年も二年もかかって覚える。そして、覚えたら、それを一生忘れない。なあ、彦六。空手だのなんのと言ったって、所詮は素手で人を倒す技術だ。人を倒すのに、百や二百の技を知っていなくたってかまわないんだよ。強力なローキックがひとつ、強力な右のストレートがひとつ、そのふたつだけでだっていいんだ──」 赤石は、口をつぐんで彦六を眺めた。 彦六は、無言で、赤石の次の言葉を待った。 「空手家なんぞと言ったって、初めてブロック割りをした時のあの感動を、一生覚えていられるかどうか、根っこは、そんな単純なところにありそうな気がするよ──」
『玄象という琵琶鬼のために盗らるること』より 「ひと月近くもどこへ行っていた?」 「高野へな」 「高野?」 「うむ」 「何故また急に──」 「わからぬことがあった」 「わからぬこと?」 「というよりは、思いついたことがあってな。高野の坊主と話をしてきた」 「なんだ、それは──」 博雅が訊く。 「しかしなあ──」 晴明が頭を掻いて、博雅を見やる。 「しかしなんだ?」 「おまえはよい漢だが、こういう方面の話はあまり興味がないのではないか?」 「だからどういう方面の話なのだ?」 「呪(しゅ)よ」 晴明は言った。 「呪!?」 「呪について、話してきたのだ」 「何を話した?」 「たとえば、呪とは何であるのかというようなことをだ」 「呪とは呪ではないのか──」 「それはまあそうだが、その呪が何かということについて、ふと思いついたことがあったのでな」 「何を思いついた」 博雅が訊く。 「たとえばだ。この世で一番短い呪とは何だろうな」 「一番短い呪?」 わずかに考えて、 「おれに考えさせるなよ、晴明。教えてくれ」 「うむ。この世で一番短い呪とは、名だ」 「名?」 「うん」 晴明がうなずいた。 「おまえの晴明とか、おれの博雅とかの名か」 「そうだ。山とか、海とか、樹とか、草とか、虫とか、そういう名も呪のひとつだな」 「わからぬ」 「呪とはな、ようするに、ものを縛ることよ」 「───」 「ものの根本的な在様を縛るというのは、名だぞ」 「───」 「この世に名づけられぬものがあるとすれば、それは何ものでもないということだ。存在しないと言ってもよかろうな」 「むずかしいことを言う」 「たとえば、博雅というおぬしの名だ。おぬしもおれも同じ人だが、おぬしは博雅という呪を、おれは晴明という呪をかけられている人ということになる──」 しかし、まだ博雅は納得のいかぬ顔をしている。 「おれに名がなければ、おれという人はこの世にいないということになるのか──」 「いや、おまえはいるさ。博雅がいなくなるのだ」 「博雅はおれだ。博雅がいなくなれば、おれもいなくなるのではないのか」 肯定するでも否定するでもなく、晴明は小さく首を振った。 「眼に見えぬものがある。その眼に見えぬものさえ、名という呪で縛ることができる」 「ほう」 「男が女を愛しいと想う。女が男を愛しいと想う。その気持ちに名をつけて縛れば恋──」 「ほほう」 うなずいていても、しかし、まだ博雅にはわからぬ様子である。 「しかし、恋と名をつけぬまでも、男は女を愛しいと想い、女は男を愛しいと想うだろう──」 博雅は言った。 「あたりまえではないか──」 晴明はあっさりと答えて、 「それとこれとは別のことだ」 酒を口に運んだ。 「なおわからぬ」 「ならば言い方を変えようか」 「うむ」 「庭を見よ」 晴明が横手の庭を指差した。 あの、藤の木がある庭である。 「藤の木があるだろう」 「あるな」 「おれは、あれに、みつむしと名をつけた」 「名を?」 「呪をかけたということだ」 「だからどうした──」 「けなげにもおれが帰るのを待っていた」 「なんだと?」 「花がまだ咲き残っている」 「わからぬことを言う男だ」 博雅が言う。 「やはり男と女のことで説明してやらねばならぬか」 晴明は、そう言って博雅を見た。 「説明しろ」 博雅が言う。 「おぬしに惚れた女がいたとしてだな、おぬしでも呪によって、その女に、たとえ天の月であろうとくれてやることができる」 「教えてくれ」 「月を指差して、愛しい娘よ、あの月をおまえにあげようと、そう言うだけでいい」 「なに!?」 「はい、と娘が答えれば、それで月はその娘のものさ」 「それが呪か」 「呪の一番のもとになるものだ」 「さっぱりわからぬ」 「わからぬでいいさ。高野の坊主などは、ひとつの真言で、この世の一切に呪をかけたつもりになっているのだからな──」 さすがに博雅はあきれた顔になった。 「おい晴明、おまえ、高野で、ひと月も坊主とそんな話ばかりしていたのか」 「まあ、そうだ。実際には二十日ほどだったがな」 「呪はわからぬよ」 博雅は酒を口に運んだ。 凄いぞ、きよひこ。お前の描く漫画はまさに呪の理を説いておるのだ。